原体験
猿渡 進平
『100BLG』立ち上げメンバーである前田隆行、徳田雄人、猿渡進平、河野禎之、平田知弘が一堂に会し、『100BLG』の発足についてそれぞれの想いを語りました。
※(取材は町田市にある「DAYS BLG!」にて)
— この回では、猿渡が認知症をめぐる介護の世界に入ったきっかけのお話を中心にお伝えしていきます。
猿渡 僕は福岡県大牟田市の出身です。今日も大牟田からやって来ました。
高校生のとき、大好きな祖母に認知症状が現れました。僕の家族は両親と兄と、父方の祖母と僕の5人でした。僕と兄は学生だったし、父は仕事があるので、母がひとりで祖母を看なければいけない状態だったんです。祖母の状態もだんだん悪くなっていき、家族内や近所間でのトラブルが出現してきました。物忘れやら被害妄想ですね。1997年当時は介護保険のサービスもないようなときなので、母はたったひとりで対応していました。また、近くのディサービスへの通所を勧められたのですが「行きたくない」と拒んでいました。 そのうちに母が病気になって入院してしまったんです。それで祖母も、やむなく施設に入らざるを得なくなりました。
僕は祖母のところに定期的に面会に行きましたが、だんだんと僕の名前もわからなくなりました。だけど、帰ろうとすると「わたしも帰る」って洗面器に歯ブラシやコップを入れてついてくるんですよね。祖母だけじゃない、入所してる多くのおじいちゃんおばあちゃんもです。廊下を歩いてエレベーターホールまでついて来てみんな寂しそうにしているわけです。あっけにとられる、というんでしょうか。認知症ってこういうことか、と実感した瞬間でした。
祖母は、その後、病気があれば病院に行き、そして身体の状態に合わせて幾つかの施設を巡り、最終的には施設で亡くなりました。
数十年住んできた家に帰りたかった祖母。帰らせたかった家族。
「そうせねばならない」という現実があったんですが、そのすべてが家族の誰もが望んでいない方向にあったんですよね。僕は祖母と一緒に暮らしたかった。たったひとりで祖母を看た母も、状況が違っていたら、体調を壊さずにいれたかもしれない。 こういう原体験があって、僕はいまこの世界にいます。
前田 そうだよね……。俺らが若い頃もそういう厳しい現実はあるわけだけども。いま現在でもまだ、認知症と言われたひとは苦しい思いをしているよね。 「DAYS BLG!※」に来てくれたアオヤマさんは、営業職をバリバリやっていた方でね。物忘れが多くなって仕事のミスが重なって、上司から病院で診てもらってこいって言われて。50代でアルツハイマー型認知症だと診断されたんだそうです。結婚を考えていた女性に急に別れを告げられて、同僚・友人は全員離れていった。残ったのは家族だけ。その現実と向き合うことで心が壊れそうになって、お酒に逃げた。そうして毎日酔っ払ってばかりいると、家族が心配して「そんなに飲むのやめて」って言うでしょう? でもアオヤマさんは「うるせー!」って暴れた。暴れたあと本人は落ち込むんですよ。家族にこんなことしたくないって。
その当時、アオヤマさんは「家族にも迷惑をかけるし、これからどうしたらいいんだ? 死んでしまったほうがいいんじゃないか?」と本気で思っていたそうです。 死んでしまおうと思わせてしまう環境。これは僕らの問題です。認知症に対する周囲のイメージや「視線の病」、そのうえで自分で自分を認められないという二重苦なわけです。
※DAYS BLG!……前田隆行が運営するデイサービス。当事者の「やりたい!」という気持ちを大切に、まちに出て就労するなどの活動が注目されている。
平田 テレビのディレクターをしていた時代、僕は福祉の番組を制作していました。認知症の方たちを取材していくと、みなさん共通して「まわりに合わせなきゃ」とか「社会に求められるようにふるまわなきゃ」という気持ちをつよく持っておられる。周りに迷惑をかけないように、という。
でも、認知症があろうがなかろうが、そのひとが大きく変わるわけではないじゃないですか。これやりたいとか、これが楽しいからやるんだっていうのは、みんなのなかに当たり前にあることですよね。それを現実はできていないんだろうなってことに気がついたんです。
shinpei saruwatari
- 『100BLG』の大応援団長
- 医療法人静光園白川病院 医療連携室長
1980年福岡県大牟田市生まれ。日本福祉大学大学院卒。
同居の祖母が認知症になったことが理由で福祉の道に進む。2002年 医療法人静光園 白川病院に入社。その後大牟田市地域包括支援センター、厚生労働省社会・援護局の出向などを経て現職。